緊急時に炙り出る現実とどう向かい合うべきか? 「国家が破産する日」と「Fukushima50」を鑑賞して考えた事

四度目の緊急事態宣言が発出中でにいよいよ東京オリンピックが無観客ながら強引に開催される見通しです。
そんななか韓国映画「国家が破産する日」と日本映画「Fukushima50」を続けて鑑賞しました。
どちらも国家的危機を描いた実話で深く考えさせられました。

「国家が破産する日」は韓国で1998年に起きた通貨危機で韓国という国家事体が対外的に不渡りを出してしまい国際的な信用がガタ落ちで国を代表するような大企業が連鎖的に倒産し、朝鮮戦争以来の苦難といわれるほどの国家存亡の危機に陥りました。
結果的にはIMF(国際通貨基金)より緊急援助を受ける事によって韓国経済全体がIMF管理下に置かれ国家経済の主体性をIMFに露骨に侵害されながら、中小企業は当然のように淘汰され大量の失業者を生み出してしまったのです。

一方「Fukushima50」で描かれた危機はさらに深刻です。言わずと知れた東日本大震災での福島原発事故でいかにしてメルトダウンを防いだを臨場感あふれる展開で目が離せない迫力でした。
両作とも共通している事は国家的危機が生じる事の原因はほとんどが人災であり事前に防げたのでは?と考えられる事です。

韓国の通貨危機は日本のバブル同様に景気が良いからと金融機関が当時「タコ足式」と揶揄された多角融資を無分別に行ってしまった事が原因との事です。
また国家的な不渡りと通貨危機が目前に迫ってきている事を認識しながら国の担当者たちが国民に対して隠蔽した事が事態をさらに深刻化してしまったのです。
この「国家が破産する日」の公開は2018年でこの危機から丁度10年という節目の年ですが韓国経済は相変わらず外勢依存が高く中小企業への国家的協力が曖昧な点は「この10年間、何を学んだのか」と批判されてばかりです。

一方、福島原発事故は天災でありながらこれほどの大津波を予測していない防災体勢による人災ともいえます。
「おれたちは自然をナメていた。自然を支配したつもりでいた。」終盤で主人公が語る台詞がすべてを物語っているようです。
このような新型コロナウィルス蔓延の状況でオリンピックを強行的に開催しようとは、それこそ「自然をナメている」事ではないでしょうか?